非暴力による独立運動を行ったガンディーに、力を与えた不思議な物語、『バガヴァッド•ギーター』。

自分の親族、友、師達と戦争をしなければならなくなった、この物語の主人公である王子アルジュナ。

 

「大切な人と殺し合うことなんかしたくない。」

と弱音を吐くアルジュナに対して、神クリシュナは、

「勇ましく戦え!」

と言い放った。

 

「どのような武器を用いても、魂を切ったり破壊したりすることは出来ない。

生まれたものは必ず死に、死んだものは必ず生まれる。

必然、不可避のことを嘆かずに、自分の義務を遂行しなさい。」

 

王子であり、戦士でもあるアルジュナの義務。

それはすなわち、戦う、ということだ。

 

『肉体は滅んだとしても、魂は決して滅ぶことはない。

故に、気にせず戦え。』

 

神クリシュナは、こう言ってるように感じる。

しかし、これを聞くと、かなり危険な気がして来ないだろうか。。

 

『生きていることは、苦しみである。

肉体という重荷を背負っている限り、魂は苦しみ続ける。

 

肉体が滅んだとしても、魂が滅ぶことはない。

あなたの魂を、苦しみから解放させるため、あなたを殺します。』

 

こんな危険な思想に行き着いてしまいそうな気がする。

 

一体、神クリシュナはなぜ、

「戦え!」

と言うのだろうか?

 

魂は決して滅ぶことはないと悟った人間は、人を殺しても構わない、ということを言っているのだろうか?

いや、そんなはずはない。

 

そんな物語に影響を受けたガンディーが、非暴力による独立運動を行うはずがない。

では一体、神クリシュナは何と、戦え、と言っているのだろうか?

 

ここで、前回の話を思い出してほしい。

この物語はあくまで、「精神のヨーガ」について描かれたものだった。

 

「精神のヨーガ」の意味や目的、その修行方法について解説されたものだ。

今の自分を作ってくれた大切な人と戦わなければならない、というのは、それを解説するための舞台設定のはずだ。

 

では一体なぜ、そんな状況を設定したのだろうか?

「精神のヨーガ」について解説するのであれば、アルジュナとクリシュナ2人で、滝に打たれながらでもよかったはずだ。

 

しかしそれをあえて、大切な人達との殺し合い、という状況設定にしたのには、何か意味があるはずだ。

では、そこにはどういった意味があったのだろうか?

 

 

ここで、前回の話に戻ろう。

本当の”私”、すなわち”アートマン”は、傷つくこともなく、破壊されることもないものだった。

 

映画の例えで言うと、本当の”私”とは、観客のことだ。

 

その本当の”私”を、誤ったもの、つまり肉体や精神や社会的地位や財産などに同化させてしまうことで、余計な不幸を背負い込んでしまう。

 

映画の例えで言うと、誤ったものとは、登場人物だ。

登場人物に誤って同化してしまうと、登場人物に起こるあらゆる不幸を、自分のものと勘違いしてしまう。

しかし実際には、映画を観ている観客には、何一つ不幸など起きていないのだ。

 

同じように僕たちは、肉体や精神や社会的地位や財産などが傷つけられると、まるで本当の”私”が傷つけられたように、不幸を感じてしまう。

しかし実際には、本当の”私”には、何一つ不幸など起きていないのだ。

 

では一体なぜ、そのように誤った同化が起こってしまうのだろうか?

 

その原因は、人間の成長過程にある。

僕たちは、何も知らないまっさらな状態で生まれてくる。

 

成長するに従って、そのまっさらなコンピュータの上に、様々なプログラムが組み込まれていく。

例えば、沸騰したお湯に触れて熱い思いをする。

すると次回からは、お湯に触れた瞬間に手を引っ込めるようになる。

 

こういうプログラムが、一瞬で起動するようになっていく。

これは何も、実体験で得たものだけではない。

 

人間はすぐに言葉を覚える。

そして、その言葉によっても、プログラムはどんどん書き込まれていく。

 

「男らしく/女らしくありなさい」

「上の人の言うことは素直に従いなさい」

「皆の迷惑にならないようにしなさい」

「勉強して偉くなりなさい」

「空気を読みなさい」

 

こういった、実体験で得た経験、言葉、さらにこれらを自分の頭の中で組み替えたり、想像したりしたもの、それらを指針として、僕たちの行動や感情は作られている。

 

これが成長するに従い、モノスゴイ早さで計算が行われるようになり、何を指針としているのか、全く意識しないまま、行動や感情が作られるようになってくる。

 

これが人間を成長させる機能であり、こういった機能を持っていなければ、人間としてまともに生きていくことが出来ない。

僕たちに必要な機能だ。

 

しかし、この優秀な機能が、時として僕たちを苦しめることになる。

 

「なぜ私はこんなに苦しくなるまで頑張り続けているんだろう、、?」

「なぜちょっと批判されるだけで落ち込んでしまうんだろう、、?」

「なぜ上手くいってる人を見ると、嫉妬してしまうんだろう、、?」

 

人間の持っている優秀すぎる機能が、あまりにも速く答えを出してしまうため、僕たちは、なぜ自分がこんな行動をとっているのか、なぜ自分がこんな感情になっているのか、分からなくなってしまう。

精神の修行をするということは、自動反応になってしまっているそういったプログラムを、意識していくことから始まる。

 

では、僕たちの無意識領域の中に組み込まれているプログラムは、一体誰が組み込んだのだろうか?

 

その多くが実は、僕たちを生み、育て、導いてくれた、親、兄弟、親戚、先生、幼い頃の友なのだ。

僕たちの行動や感情を作っているプログラムのほとんどは、僕たちがまだ幼かった頃に書き込まれたものだ。

 

そのプログラムを基に、また次のプログラムが出来、そのプログラムを基に、また次のプログラムが出来。

と、成長するに従い、どんどん複雑なプログラムが構築されていくが、その大本になっているものは、幼い頃、僕たちを生み、育て、導いてくれた、大切な人達によって組み込まれたものだ。

 

そして、そのプログラムの中には、今となってはもう、要らなくなってしまったものも数多く存在する。

しかしそういった、要らないプログラムが、未だに僕たちの無意識領域にどんと居座り、僕たちの行動や感情をコントロールしている。

 

僕たちは大人になり、大きくなった。

しかし、精神世界の僕たちは、未だに幼い頃の服や靴を身につけたままなのだ。

サイズの合わなくなった服や靴が窮屈で、苦しんでいる。

 

それらを脱ごうとすると、

「こら、靴を脱いだら怪我をするぞ!」

と、怖い顔で怒る父親が顔を出す。

 

「服を脱いだら寒くて風邪引くよ~。」

と優しい顔で接する母親が顔を出す。

 

僕たちはこの、要らなくなったプログラムと、合わなくなった服の狭間でもがいているのだ。

この苦しみから抜け出すためには、幼い頃、自分を生み、育て、導いてくれた大切な人達の幻影を、ぶち壊さなければならない。

 

神クリシュナが、

「戦え!」

と言っているのは、この幻影のことなのだ。

 

この幻影に打ち勝たないことには、「精神のヨーガ」の修行は始まらない。

誤って同化してしまっているものの存在にも気づかない。

それでは、”悟り”に至ることなど出来ない。

 

「故にアルジュナよ、勇ましく戦え!」

 

これが、全18章ある『バガヴァッド•ギーター』の、初め2章に描かれていることだ。

 

 

『こ、これは、、、

インドの物語、想像以上にすごいぞ、、、』

 

僕は、古代インドの物語『バガヴァッド•ギーター』に、すっかり魅了されてしまった。

 

 

僕をインドに呼び寄せた物語の話、ここで一旦終了。

 

この後も続く、、、かどうかは分からない。

もうちょっと書きたくなったら書こう。