非暴力による独立運動を行った、インド独立の父ガンディー。

そのガンディーが、くじけそうになったとき、彼に何度も力を与えたスゴイ物語がある。

それが、ヒンドゥー教の重要な聖典の一つ、『バガヴァッド•ギーター』だ。

 

非暴力を訴え続けたガンディーの座右の書であるからには、非暴力に関する教えが書かれているのかと思った。

 

が、その内容は、

「勇ましく戦え!」

というものだった。

 

今の自分を作ってくれた、親族、友、師を相手に、迷わず戦え。

それが、この物語に登場する神、クリシュナの教えだった。

 

一体これは、どういう意味なのだろうか?

これを理解するためには、いくつか前提となる知識が必要になる。

 

まずは、この物語の内容について。

『バガヴァッド•ギーター』は、単なるおとぎ話ではない。

 

これは、ヨーガの修行の意味や目的、そしてその方法について書かれたものだ。

 

「そういう内容なのであれば、いちいち物語形式なんかとらずに、ストレートに解説してくれれば分かりやすいのに、、。」

と思う方もいるかもしれない。

 

恐らく歴史上、ヨーガの修行についてストレートに解説した本はたくさんあっただろう。

が、そのほとんどが、現代に伝わって来ていない。

 

仮に伝わっていたとしても、それは知る人ぞ知る秘伝の書のようなもので、広く一般大衆に知られるものではない。

『バガヴァッド•ギーター』のスゴい所は、現代まで、それも一般大衆でも知るような形で伝わって来ている所だ。

 

なぜそんなに永く、広く伝えられたのかというと、それは誰もが興味を持ちやすい、物語の形式に落とし込んだからだろう。

『バガヴァッド•ギーター』は、ヨーガの修行について、ストレートに書かれていない分、解りづらい。

正直、意味が解らない部分も多い。

 

がそれは、永く、広く、読み伝えられていくための苦肉の策で、物語形式をとっているので仕方がない。

しかし、その中には、古代インドから伝わる、重要な内容が押し込められている。

 

あの不屈の精神を持ったガンディーの、心の支えになった程の、驚異的なパワーが詰まっている。

物語の中に圧縮されたファイルを、一つ一つ解凍し、そのパワーを引き出しながら読み進めていく。

 

そんな物語だ。

 

 

では続いて、ヨーガについて。

ヨーガと一言で言っても、色々ある。

 

そのヨーガを大きく2つに分けると、「肉体のヨーガ」と「精神のヨーガ」に分けられる。

僕たちが一般的にイメージする、ストレッチのようなヨーガは、「肉体のヨーガ」の一種だ。

一方、「精神のヨーガ」は、瞑想とかそういったイメージの方だ。

 

で、『バガヴァッド•ギーター』で語られているヨーガは、全て「精神のヨーガ」の方についてだ。

 

この『バガヴァッド•ギーター』という物語の中では、神クリシュナが、王子アルジュナに対して、「精神のヨーガ」の修行の意味や目的、その方法について丁寧に解説している。

すなわちこの物語は、「精神のヨーガ」を体得し、”悟り”を得るための道を描いたものだ。

 

ここで、”悟り”というと、仏教ではないか、と思う方もいるかもしれないが、その通りだ。

ヨーガにおける”悟り”も、仏教における”悟り”も、根本的には同じようなことを指している。

ヨーガにしろ、仏教にしろ、ヒンドゥー教にしろ、その源流にあるのは古代インド哲学であり、根本的な考えは共通している。

 

 

では、”悟り”とは一体何なのか?

ものすごくざっくりと言うと、”悟り”とは、『本当の私を解き放ち、宇宙と一体となること』。

 

なんかこれだけ聞くと、スピリチュアルチックで、オカルトチックなイメージがする。

が、古代インド哲学は、そんなにふんわりしたものではない。

 

”悟り”について理解するにはまず、”私”についての理解が必要になる。

”私”とは一体何なのだろうか?

 

古代インドの哲学者達は、”私”とはなんなのか、ということに関して、徹底的に考えた。

 

普通僕たちが、

「”私”とは何ですか?」

と聞かれると、自分の身体を指差し、

「これが私です。」

と答えるだろう。

 

が、よくよく考えてみると、それは本当に”私”なのだろうか?

 

では、今抜け落ちた1本の髪の毛、これは”私”だろうか?

 

恐らく、多くの人が、

「それは私ではない。」

と答えるだろう。

 

では仮に、腕が切り落とされたとして、その切り落とされた腕は”私”だろうか?

 

これも恐らく、多くの人が、

「No。」

と答えるだろう。

 

ではもし、首から上と下、スパッと切り離されて、両方とも人工的に生命維持されたとしたら、、、

首から上と下、どちらが”私”だろうか?

 

これは非常に微妙な問題になってくる。

心は胸の所にある、なんて言ったりもするが、恐らく多くの人はやはり、

「頭の方こそ”私”だ。」

と答えるだろう。

 

では仮に医学が発達し、障害が起きた脳の部分を、人工脳に取り替える手術が、完全に出来るようになったとする。

術後も、今までと全く同じように考え、行動出来るようになるとする。

 

その人工脳の部分を徐々に増やしていき、最終的に100%人工脳に取り替えてしまった。

しかし、これまでと同じように考え、行動することは出来る。

 

このとき、”私”はいなくなってしまったのか、、?

 

いや、恐らく”私”はいるはずだ。

ということは、普段僕たちが”私”と思っているこの肉体は、本当の”私”ではないということだ。

 

 

では、記憶が”私”なのだろうか?

そうなると、記憶喪失で過去の記憶が完全になくなってしまった人は、”私”ではなくなるのだろうか?

 

いや、記憶もどうも本当の”私”ではない気がする。

 

 

では、思考体系のようなものが”私”なのだろうか?

 

昔、こういう物語を読んだことがある。

その物語の主人公は、デブで臆病で、運動も勉強もできないダメ少年だった。

 

その少年はあるとき、不思議な本に出会った。

その本を読んだ人は、その本の世界に入ってしまうのだ。

 

本の世界に入った少年は、英雄になった。

素晴らしい肉体を手に入れ、頭も良くなり、性格も勇ましく変わってしまった。

 

次第に、元のダメ少年だった記憶すらなくなっていくのだが、なぜかそこに、共通する”私”という存在があるのだ。

まあこれはあくまで物語の話なのだが、肉体、記憶、思考体系などが全て変わってしまったとしても、やっぱりそこに、共通する”私”が存在しているように、僕はその本を読んで感じた。

 

 

では、もう少し想像力を働かせてみよう。

仮に僕が今、現実と思い込んでいる世界が、全て幻想だったとしたら?

実は、本当の世界の僕は、頭にプラグのようなものを埋め込まれて、夢を見させられているのだとしたら?

 

ある日、本当の世界の僕が、突然目覚める。

そして、本当の世界の自分を見て、衝撃を受ける。

 

「な、なんじゃこりゃ~~~?!」

 

が、実はそれも幻想だった。

本当の本当の世界の僕は、人間ではなくロボットだった。

 

僕が今まで現実だと思っていた世界は、本当の本当の世界の僕に組み込まれた、ただのプログラムだったのだ。

 

ある日、本当の本当の世界の僕が、突然目覚める。

そして、本当の本当の世界の自分を見て、衝撃を受ける。

 

「な、なんじゃこりゃ~~~?!」

 

が、それも実は幻想で、、、、

 

と、このように、本当の世界がどれかなんてことは、証明しようがない。

と同時にそれは、本当の自分の肉体、本当の自分の記憶、本当の自分の思考体系はどれかなんて、証明不可能だということだ。

 

では、ここで証明可能なこととは一体何なのか?

 

それは、

『これは本当の世界なんだろうか、幻想なのだろうか?』

と”疑っている何か”の存在だ。

 

どこまで行っても、本当の世界がどれかなんてことは分からないが、その世界を”認識している何か”はどこまで行っても存在するのだ。

その、”認識している何か”こそが、本当の”私”ではないか、というのが古代インド哲学の考えだ。

(本当はもっと複雑だろうが、簡単に言うと)

 

 

この本当の”私”のことを、古代インド哲学では”アートマン”と言った。

似たような日本語として、これを”魂”と訳すことがある。

 

(余談だが、マハトマ•ガンディーの、”マハー”とは、”偉大な”という意味だ。

そして、”トマ”というのが、”アートマン”のことだ。

”マハーアートマン”、すなわち”偉大なる魂”という意味。)

 

 

ここで、神クリシュナが、”アートマン”について、どう語っているのかを聞いてみよう。

 

「アートマンは、決して傷つかず、壊されもしない。

たとえいかなる人でも、方法でも、不滅の魂を破壊することは出来ない。」

 

つまり、本当の”私”は、傷つくことも、壊れることもない、と言っている。

が、そうは言われても、僕たちは殴られたら痛いし、誹謗中傷されると心が傷つく。

 

どんな理屈をこねられた所で、”私”は傷ついてしまうような気がする。

それに対して、古代インド哲学では、”私”が傷つくことはない、と言うのだ。

 

これを説明するとき、古代インド哲学ではよく、踊り子と観客を例に出したそうだ。

が、現代の日本人では、あまり馴染みがないので、僕らに馴染み深い映画を例にして考えてみる。

 

僕たちは、映画館で映画を観ている観客だ。

 

凄く出来のいい映画を観ているとき、僕たちはついつい、主人公に感情移入してしまう。

主人公が危険な目に遭うと、本当に怖くなり、額に汗をかいてしまう。

主人公に悲しいことがあると、本当に悲しくなり、胸が痛くなってしまう。

 

が、冷静になって考えてみると、自分は何一つ傷ついていない。

どんなに恐ろしい悪役が登場しようと、決して観客を傷つけることは出来ないのだ。

 

同じように、僕らが現実だと思っている世界で、どれだけ殴られようと、どれだけ誹謗中傷を受けて精神を傷つけられようと、それを認識している何かである”アートマン”、すなわち本当の”私”は、決して傷つけられることがないのだ。

 

僕たちが映画を観ているとき、主人公に起こるあらゆる不幸を、自分のものだと勘違いしてしまうと、よけいな不幸を背負い込んでしまうことになる。

これは、”私”を誤ったものに同化させてしまっているから起こる不幸だ。

 

同じように僕たちは、自分とは肉体であり、精神であり、社会的地位であり、財産であり、と誤ったものに自分を同化させてしまう。

そして、それらが傷つけられると、まるで本当の”私”が傷つけられたように感じ、余計な不幸を背負い込んでしまう。

 

しかし、それは勘違いなのだ。

”アートマン”は、決して傷つきもしないし、壊れもしない。

生まれることもなければ、死ぬこともない。

”アートマン”は元々、不生不滅なのだ。

 

それに気づくと、”アートマン”すなわち本当の”私”は、不生不滅である宇宙の一部である、という意識に至る。

そしてそれを、圧倒的な体感として理解する。

 

それが、”悟り”の境地だ。

 

 

と、ここまで来た所で、また神クリシュナの話を聞いてみよう。

 

「魂は不生不滅である。

どうして誰かを殺し、また誰かに殺されることがあり得ようか。

 

生まれたものは必ず死に、死んだものは必ず生まれる。

必然、不可避のことを嘆かずに、自分の義務を遂行しなさい。」

 

王子であり、戦士である主人公アルジュナの義務、それはすなわち、

「戦え!」

ということだ。

 

本当の”私”は、決して死ぬことはない。

なので、恐れずに戦争をしろ、と。

 

『おいおいこれだと、どうせ本当の”私”は死ぬことがないんだから、どれだけ人を殺しても構わない、という危険思想になるんじゃないか?!

 

こんなものを、子供に読み聞かす物語にしていったら、危ない子供ばっかり育ってしまうんじゃ、、?』

 

この物語を読んだとき、僕はそう考えた。

 

一体ガンディーは、この物語から、どういう風にパワーをもらったのだろうか、、、?

僕はさらに、『バガヴァッド•ギーター』の世界観に惹き込まれていった。

続く、、、、