前回、日本人とインド人の、ものを共有する意識感覚の違い、について書いたが、また似たようなエピソードを思い出したので、今回もそれについて書いていこう。
これは、僕が聞いたインドの衝撃的なエピソードの中でも、かなり上位に入る衝撃的なエピソードだ。
僕は以前、旅好きな人を集めたオフ会を開いていたことがある。
メンバーは、SNSや、旅好きな人たちが見ているような掲示板などを使って集めるわけだが、まあそんなのに集まってくるような人達は、中々パンチが効いてる人が多い。
一見、普通の女性に見えても、実は物凄くたくましい人生経験を持っていたりする。
このエピソードは、そんなたくましい人生経験を持った女性から聞いたものだ。
その女性が、以前インドを一人旅していたときのこと。
ちなみに、インドの交通機関は、よく遅れる。
30分、1時間待ちなんてのはまだいい方で、10時間遅れなんてこともある。
僕が聞いた中で最高は、24時間遅れだった。
『いや、それってもはや欠航って言うんじゃないの?』
とも思いはしたが。。(もしかしたら、前日の24時間遅れのバスと、当日の定刻のバスが2台同時に来たのかもしれない)
まあ、その女性が、そんなインドを旅してたときのこと。
彼女は、夜遅くに出発するバスを待っていた。
しかし、そのバスが大幅に遅れ、バス停で一泊しなければならなくなってしまった。
もちろん、一泊すると言っても、宿泊施設や、休憩所があるわけではなく、バス停の地べたで休むしかない。
しかも、他のバスも遅れていたらしく、そのバス停はぎゅうぎゅう詰め状態だったそうだ。
そんな状態にも拘らず、インド人達はたくましくも、地べたに寝転がっていく。
あっという間に、バス停のフロアは、足の踏み場もないくらいに埋まってしまった。
しかしそれでもまだ、バス停には、仮眠を取りたいインド人達が溢れている。
そこで、インド人達が取り出した行動が、衝撃的なものだった。
それまで、さんざんインドの衝撃的な光景を見て来た彼女を驚かせたのだから、それは普通の日本人からしたら、ほんとにぶったまげるような光景だ。
そのとき、インド人達が取った衝撃的な行動。
それは、『寝ている人の上に、もう一段重なって寝る』、という行動だ。
もちろん、顔の上に足の裏をのっけたり、顔の上に顔をのっけたりするのは、いくらインド人同士でも失礼に当たる。
なので、そうならないように、編み物でもするかのように、上手いこと二段重ねに、人々が折り重なって寝ていったそうだ。
『顔の上に足の裏を持ってくるのは失礼だけど、二段重ねはオッケー』
というインド人の意識感覚に、彼女は衝撃を受けてしまった。
彼女は、いくらインド慣れしてるとはいえ、この状況はさすがにどうしていいか分からない。
そこで、彼女はバス停の従業員に訴えた。
「私は一体どこで休めばいいんだ?!」
と。
すると、その従業員は、
「よし、ちょっと待ってろ。」
と言って、動き始めた。
そのたくましい台詞に、彼女は少し安心した。
しかし次の瞬間、バス停の従業員が放った言葉は、安心していた彼女を落胆させるものだった。
「おい!
ここまだ一段だから、ここいけるぞ!」
『だからその、二段まではオッケーっていう意識感覚は一体何なの、、、?!』
これが、その女性が語ってくれた、インドの衝撃的エピソードだ。
このように、インド人と日本人では、他人と空間を共有する意識感覚も全く違う。
パーソナルスペースという言葉を知っているだろうか?
これは、社会心理学の用語で、他人に入られると不快に感じる空間のことを意味する。
これは、相手との関係や、その場の状況等で変動するものだが、一般的な社会生活上では1m~3.5mくらい。
親しい間柄の人と個人的な話をするときは、50cm~1mくらいとされている。
思うに、インド人の場合はこの距離が、もっと近い。
一般的な社会生活上で1m未満。
時と場合によっては、二段までオッケー、という感覚だ。
そういえばまた、こんなエピソードも思い出した。
『地球の歩き方』という、旅人のバイブルと呼ばれている本がある。
この本は、インド編、タイ編、イギリス編等、それぞれの地域ごとに一冊ずつ分かれて出版されている。
中には、その地域の観光地情報、宿情報、食情報などだけでなく、その地域の文化や風習などについても、分かりやすく説明された情報が掲載されている。
その『地球の歩き方』の南インド編に、こう書かれていた。
「インドでは、成人男性同士手をつないで歩いている姿を見ることがあるが、深い意味はない」
『いやいやいや、それちゃんと調べました?!
どう考えても深い意味ありそうですけど、、。』
と思ってしまう光景を、僕自身何度も見て来たが、まあ旅人のバイブルがそう言ってるんだから、そう信じるしかない。
信じるものは救われるだ。(何から?)
まあ、よく考えてみれば、同じ人間同士手をつないで歩くという行為自体は、なんらおかしな行為ではない。
それをおかしいと思うのは、単なる勝手な決めつけに過ぎない。
例えば、犬同士であれば、お互いの尻の臭いを嗅ぎ合うのが当たり前だ。
犬にとって、お互いの尻の臭いを嗅ぎ合うという行為は、サラリーマンにとっての名刺交換のようなものだ。
「あれ、この臭いはどこかで、、?
ああ、あの辺りの縄張りを絞めてらっしゃる○○さんですか?
これはこれは、初めまして。」
犬にとっては、これが普通の挨拶だ。
そんな犬から見ると、サラリーマンの名刺交換という行為の方が、余程おかしな行為に見えるだろう。
同じように、成人男性同士手をつないで歩いている姿を、おかしいと思うのは、ただの偏見でしかない。
僕たちは、大人になるまでに、多くの偏見を身につけて来た。
僕たちは常に、偏見という眼鏡をかけた状態で世界を観ているのだ。
でも、たまにその眼鏡を外して世界を観てみてはどうだろう?
僕たち日本人は、大震災のときにも、ちゃんと列に並んで順番待ちをした。
その行動は、世界から高く評価された。
しかしどうだろう。
全員分寝るスペースがない所で、二段重ねになって皆で寝る、という行動も、偏見の眼鏡を外して観てみると、ある意味立派な行動に観えて来ないだろうか。笑
(まあここで笑ってしまった僕は、まだまだ偏見の眼鏡をかけっぱなしですけどね)
偏見の眼鏡には、常識というレンズがはめられている。
もちろん、この眼鏡を掛けている事自体は、悪いことでも何でもない。
全員が全員、これを外してしまったら、社会が成り立たない。
ただ、その眼鏡をあえて外してみる、という選択肢があるということだけは、言っておきたい。
それを外したときに、初めて観える世界もあるから。