『私は犬になりたい』なんてことをちょっと考えた。
僕が今住んでいるのは、インドのバンガロールという街の住宅街だ。
この住宅街の通りは、碁盤の目のように(といえるほどきれいに整ってはいないが)入り組んでいる。
で、それぞれの通りに、3~4匹ずつくらいの犬が、縄張りを持っている。
奴らは、昼間は死んだようにグタ~っとしている。
しかし、夜になると、自らの縄張りを主張し合い、毎晩仁義無き戦いを繰り広げ始める。
まあ、犬同士でやり合うだけだったら、多少うるさい程度で済むので、大した問題ではないのだが、僕ら人間に対しても、容赦なく縄張りを主張してくるので厄介だ。
なので、外で遊んで、帰りが夜遅くなったときは、帰路が非常に憂鬱になる。
不良の溜まり場を通過する中学生のような気分だ。
『どうか絡まれませんように。。』
と、祈りながら帰らなければならない。
まあ、そんな恐ろしい所に住んでいるわけだが、、、
たまに、そんな犬達を見て、羨ましいなと思うことがある。
犬のどこが羨ましいのかというと、奴らには、キャラというものがないところだ。
奴らを見てると、自分のキャラを保とう、という意識が感じられない。
だってちょっと考えてみてほしい。
奴ら、昼間はグタ~っとしていて、全く元気がない。
言ってみれば、昼間はいじめられっ子のようなキャラなわけだ。
まあ実際に、近所の子供達に、ボールをぶつけられて、いじめられたりしている。
しかし、夜になると、その子供達を威嚇するキャラになるのだ。
人間だったら、どうしても昼間のキャラを引きずってしまうので、こんなに簡単にキャラチェンジは出来ない。
僕は、『松本人志の放送室』というラジオ番組が好きで、よくYouTubeで聴いている。
その中で、こんな話が出て来た。
松っちゃんが、小学生の頃の話だ。
その日、松本少年は、体調を崩して元気がなかった。
すると、お母さんが、いつにもなく優しく接してくれた。
それが心地よくて、松本少年は、ますます元気のない振りをしていた。
ところが、その日の晩ご飯は、松本少年の大好きなシチューだった。
松本少年は思った。
『しまった。
ほんとは、シチューを食べれる程度には元気だ。
でも、さっきまで元気のない振りをしていたので、ここで急に元気になったら、辻褄が合わなくなる、、』
そこで松本少年は、晩ご飯の時間までに、徐々に徐々に、元気がある風にキャラチェンジしていったのだ。
で、晩ご飯を食べ終えたら、次は明日に向けてのキャラチェンジだ。
明日学校を休むためには、今あんまり元気だったら辻褄が合わなくなる。
そこで、その日の晩のうちにまた、元気がない風に、キャラをシフトダウンしていったのだ。
とまあ、こんな内容の話をしていたのだが、こんな経験って、多かれ少なかれ誰にでもあると思う。
まあ、大抵皆やるよね。笑
このように人間の場合、子供であっても、あまり急激にキャラが変わってしまうとまずい、と計算するので、急激な変化に思われないよう、徐々に徐々に変化させて行く。
つまり子供であっても、キャラを一定に保とう、と常に意識しているということだ。
ではここで問題。
人間は一体なんで、自分のキャラを保とうとするのだろう?
人間は、幼い子供であっても、自分のキャラをある程度一定に保とうと、計算して生きている。
なぜそうする必要があるのだろうか?
別に、シチューが食べたくなったら、急に元気になってもいいはずだ。
しかし、それをやってしまうと、辻褄が合わなくなってしまう。
その人の、一貫性が保たれなくなってしまう。
では、一貫性が崩れると、どうなるのだろうか?
例えばここに、お笑い好きの仲良し二人組がいたとしよう。
名前を仮に、マツモトとハマダにしよう。
マツモトがボケると、ハマダがマツモトの頭を叩きながらツッコミを入れる。
すると、周りで爆笑が起こる。
爆笑が起こると、マツモトもいつも嬉しそうにしている。
しかしあるとき、マツモトのボケに対して、ハマダがツッコんだ。
それに対して、マツモトが怒ってハマダを殴ったとしよう。
それも、何か理由があって怒ったわけではない。
何か、触れてはいけない部分に触れた、とかではなく、全く唐突に。
マツモトの怒りは、マツモトのキャラにはない、全く一貫性のない怒りだったとする。
さて、そんな一貫性のない行動をされたハマダはどうなるか?
恐らく今後、マツモトに対してまともにツッコミをいれれなくなるだろう。
しばらくして、マツモトはまたボケてみた。
しかし、それに対してハマダはツッコミを入れなかった。
するとマツモトは、寂しそうな顔をして、ハマダを横目でちらちら見ている。
マツモトは、自分がボケたら、ハマダにツッコんでほしい。
しかし、一度自分のキャラにない行動をしてしまうと、相手が、自分に対してしてほしい行動を、してくれなくなるのだ。
人が、自分のキャラをある程度一定に保とうとするのは、そのためだ。
ここで、もう少し深く考えてみよう。
今までの流れから言うと、
『キャラを保つことによって、相手が自分の望む接し方をしてくれる』
というような印象を受ける。
しかし、そんなことはもちろんない。
それはそうだろう。
周りから、『地味で暗くてダメな奴キャラ』として扱われている人も、そういう接し方を望んで、そのキャラを保っているわけではない。
では、人はキャラを保つことによって、何を得ようとしているのだろうか?
ここでもう一度、例え話をしてみよう。
ある学校に、一人の不良がいた。
まあ、仮に名前を三井としよう。
三井は、クラスで一番喧嘩が強く、また強い者にも屈しないというキャラを貫いていた。
なので、先生達に対しても常に反抗的で、クラスのヒーローだった。
しかし次の年、やたらめったら喧嘩の強い1年生が入って来た。
まあ、仮に名前を桜木としよう。
桜木は、一瞬にしてその学校の番長に登り詰めた。
桜木は、中途半端に喧嘩が強くて威張ってる奴が大っ嫌いだった。
なので週に一度、学校中を回って、中途半端に喧嘩が強くて威張ってる奴を呼び出し、絞めていった。
さて、そんな状況になったとき、三井はどうするか?
クラスでは、喧嘩が強く、強い者にも屈しないというキャラだった。
しかし、三井が実際に反抗していたのは、自分よりも弱い先生達に対してだった。
本当に自分よりも強い相手に対しては、当然勝てない。
なので、桜木とは絶対に喧嘩したくない。
しかし、自分が中途半端に喧嘩が強い奴だとバレてしまうと、桜木に絞められてしまう。
そこで三井は、『喧嘩はあまり強くなく、また、強い者にも屈しないという信念など持っていないキャラ』に、徐々に徐々にシフトしていかなければならなくなるのだ。
さて、三井がクラスの皆に望んでいることは、『喧嘩が強く、強い者にも屈しない、クラスのヒーロー』として扱ってもらうことだ。
しかし実際には、『喧嘩はあまり強くなく、また、強い者にも屈しないという信念など持っていないキャラ』を保とうとしている。
そのキャラを保つことによって、彼が得られるものは一体何なのか?
それは”安全”だ。
人間の行動原理は単純だ。
『不快を避けて、快楽を得る』
どんな複雑な行動でも、『不快を避けて、快楽を得る』という単純な判断基準に照らし合わせて、行動を決めている。
そして人間は、どちらかというと不快を避ける方を、まず第一に考え、行動する。
安全第一が基本だ。
つまり人間は、『出来るだけ安全を確保し、その中で出来るだけ多くの快楽を得ようとする』。
そして、それを実現するのに最もいい戦略、それがキャラを保つ、ということなのだ。
キャラを保つ、ということは、格闘技の型に似ている。
それぞれの格闘技には、大体決まった型がある。
空手には空手の型。
柔道には柔道の型。
ボクシングにはボクシングの型。
それぞれの格闘技において、決まった型を使うのは、『出来るだけ安全を確保し、出来るだけ有利に攻撃するため』だ。
そのため格闘家達は、大体いつも決まった自分の型で、試合をする。
その型は、何度も何度も実践を繰り返す中で、作り上げていった、自分にとって最も楽なスタイルだ。
同じように、何度も何度もコミュニケーションを繰り返す中で、作り上げていった、自分にとって最も楽なスタイル、それが自分が保とうとしているキャラだ。
でも四六時中、そんなキャラを保つために、計算をしながら生きてくのも疲れる。
そんなとき、
『その場の感情だけを爆発させて、生きれたらいいなあ。』
と思う。
あの犬達のように。