『郷に入れば郷に従え』
世界中の郷に入りまくる僕たち旅人にとって、このことわざは、非常に馴染み深いことわざの一つだ。

そんな僕たち旅人でも、もちろん従うことの出来ない現地の習慣はある。
インドに来て、一ヶ月が経つが、僕がどうしても従うことの出来ない、インドの悪しき習慣。
それは、ゴミのポイ捨てだ。

インド人は、地球をゴミ箱と思っているのか、とにかくどこにでもゴミを捨てる。
僕は、インドに来た初日から、その習慣に衝撃を受けた。

インドの列車に乗っていたときのことだ。
インドの列車が駅に停まると、チャイや軽食を販売する売り子が乗り込んで来て、車内で販売を始める。

で、当然それを買った人達の手には、紙コップや紙皿、ビニール等のゴミが残る。

『車内にはそんなゴミ箱もないようだし、あのゴミはどうするのかな?』
と思いながら見ていたら、窓側に座ってる人が、そのゴミを窓の外にポイっと捨てた。

『うわ~、マナー悪いな~あの人、、。』
なんて思ってたら、他の人達も、食べ終わったゴミを、ポイポイ窓の外に捨て始めた。

しかも、窓側に座ってる人だけではない。
窓側以外に座ってる人は、ゴミをバケツリレーのように窓側に座ってる人に回し、捨ててもらっていた。

『見ず知らずの人達とこんなに息を合わせて。
日本には”阿吽の呼吸”って言葉があるけど、インドにもあるんだな~。』
なんて感心してる場合じゃない。

ゴミはそのまま、線路の周りに溜まっていくのだ。
そして、それを片付ける人も、恐らくいない。

さらに、日本人の目からみると、かなり衝撃的にみえるのが、おじいちゃん、おばあちゃんも平気でポイ捨てをしていることだ。
僕たち日本人の感覚からすると、おじいちゃん、おばあちゃんの前でポイ捨てなんかすると、怒られてしまうような感覚がある。

少なくとも、昭和生まれの田舎育ちの僕からすると、まだそんな感覚が残っている。
しかし、ここインドでは、ポイ捨てに老若男女は関係ない。

もしかしたらインドにも、
『ポイ捨てはいけないことだから、私は絶対にポイ捨てしない』
と心に決めている人が、少なくない割合でいるのかもしれない。

もしそうだとしたら、こういう言い方は非常に失礼な言い方になるのかもしれないが、僕の目からすると、インド人全員がポイ捨てを推奨しているようにすらみえてしまう。
そのくらいインドでは、誰かれ構わず、平気でポイ捨てをする。

さらに衝撃的だったのが、前回インド南部のウーティーという街を旅したときのこと。
ウーティーとは、インド南部の軽井沢と言われるような避暑地で、インド人に大人気の観光地だ。

新婚旅行にウーティーに行く人も多く、インド人に『ウーティーに行った』と言えば、うらやましがられるような所だ。
周辺は有名な茶葉の産地で、風光明媚な風景が広がっている。

そのウーティーには、世界遺産に登録されている山岳鉄道がある。
その山岳鉄道に乗れば、ウーティー周辺の美しい自然の風景を楽しむことが出来る。

僕は、日本人の友達三人でウーティーを旅したとき、その山岳鉄道に乗った。
僕たち以外、乗客はほとんどインド人ばかりだった。

その山岳鉄道の車内には、英語で注意書きが書かれていた。
内容は、『自然を守るため、ゴミのポイ捨てはやめましょう』的なことだった。

『さすがに世界遺産の鉄道は、意識が高いな。』
と僕は感心した。

列車が動きだし、美しい風景が観えて来た。
乗客のインド人達は、その美しい景色に歓声をあげたり、写真を撮ったりしていた。

列車は蒸気機関車で、山道をゆっくりゆっくり上っていくので、ウーティーまで5時間くらいかかる。
5時間も列車に乗っていると、さすがにお腹がすいてくるので、途中で皆軽食を食べ始めた。

『さすがに世界遺産のこの鉄道で、窓からポイ捨てする人はいないだろう。』
と思ってみていると、なんのためらいもなく、窓からゴミを捨て始めた。

『ええっ?!
おいおい、、さっきまで、この自然の美しさに歓声あげてたんじゃなかったのかよ。。』
そう思う僕を尻目に、インド人達は見事な連係プレイで、窓の外にゴミを捨てる。

結果、風光明媚なウーティーの自然風景も、よく見てみるとそこら中にゴミが溜まってしまっている。

『一体なぜ、そんなにためらいもなく、ゴミをポイ捨て出来るのだろう?』
この疑問について考えてみた。

僕たち日本人からすると、インド人達の、なんのためらいもなくゴミをポイ捨てする行動は、かなり異様な光景に写ってしまう。
インド人にとっては当たり前の行動が、僕たちからみると異様な光景にみえてしまう理由。

僕は、これは宗教観の違いではないかと考えた。
僕たちは、なんのためらいもなく、酒を飲んだり、豚肉を食べたりする。

しかし、日本人にとって当たり前の行動も、イスラム教徒からみると、異様な光景にみえてしまうだろう。
ここには、宗教的な価値観の違いが存在する。

日本人の多くは、自分は無宗教だと思い込んでいる。
しかし、そんなことはない。
日本人も皆、なにかしらの宗教を信仰している。

僕たちは、何か悪いことをしようとしたとき、それが絶対に誰からも見られていない、という確信があったとしても、どこかに恐怖心を感じてしまう。
罪悪感ではなく、恐怖心だ。

それは、誰からも見られていない、という確信があったとしても、それでも自分のことを見ているかもしれない存在に対する恐怖心だ。
その存在が僕たちの神様であり、僕はその神様の名前を、『お天道様』と教わった。

「悪いことすると、お天道様が見てるぞ」
この言葉が、僕たちが悪事を働くことを抑制する力になっている。

これが、僕たち日本人の多くが信仰している宗教だ。
そして、日本宗教の神様は、豚肉を食べたり、お酒を飲んだりすることを咎めなかった。
かわりに、ゴミをポイ捨てすることは、悪いことだと教えた。

僕たちが、平気でゴミのポイ捨てをする人をみて、異様な光景にみえてしまうのは、それが僕たちの宗教の教義に反する行為だからだ。

『郷に入れば郷に従え』
そうは言っても、簡単には従えない習慣がある。

その簡単には従えない習慣は、宗教観の違いが大きく関わっているのではないか、と僕は思う。

PS.
インド人が、平気でポイ捨てする理由についても考えてみた。
これは、インドだけではなく、カンボジアの農村地でも、同じようにそこら中にポイ捨てが見られた。

思うに、インドやカンボジアなどでは、数十年前まで、ゴミと言えば、果物の皮やバナナの葉っぱなどのような、自然のものだったのではないだろうか。
で、インドやカンボジアなどの暑い地域では、そういったゴミは、すぐに腐敗し、土に還る。

だから、そこら中にポイ捨てしても、全く問題にならなかったのではないだろうか。
それが、ここ数十年で、土に還らないゴミが増えてしまった。

にも拘らず、昔の習慣だけは、未だに残ってしまった。
だから今、ゴミが問題になってしまっているのではないだろうか。

ちなみに、よく見てると、ポイ捨てしない人達もやはりいる。

今まで慣れ親しんで来た習慣を変えるってのは、中々難しい。
特に、その習慣をやって来た年数が長ければ長い程。

なので、こういった問題は、若い人達から、上の世代に伝えて行かなければならないものだと思う。
インドの若者達、頑張れ。

モテたいならインドに行け